1982-04-21 第96回国会 衆議院 建設委員会 第11号
○瀬崎委員 しかもこの地建の裏ジョイント指示というのは、新たな座光寺報告でもわかりますように、一般的な指示じゃないんですね。サゼスチョンを出すというようなものじゃないですよ。裏ジョイントのいわゆるJV比率までちゃんと発注者側から指示していることでしょう。中身に達したというんですね。単なる願望とか誇張で書けるような問題じゃないということですね。
○瀬崎委員 しかもこの地建の裏ジョイント指示というのは、新たな座光寺報告でもわかりますように、一般的な指示じゃないんですね。サゼスチョンを出すというようなものじゃないですよ。裏ジョイントのいわゆるJV比率までちゃんと発注者側から指示していることでしょう。中身に達したというんですね。単なる願望とか誇張で書けるような問題じゃないということですね。
もう一つ、座光寺純氏の営業報告書にも明記されているのです。これを新しく補強資料として提出いたしますよ。そこをごらんになったらおわかりのように、五十四年五月九日、井田氏のものは六月一日ですから、ほぼ同じ時期ですね。その五十四年五月九日付で「五十四年度総山トンネルについて本日ご当局よりOKが出た。
上に書いてありますけれども、三井建設の座光寺さんの営業報告なんです。一連の三井文書の中で今回初めて登場するものでございますが、座光寺さんという方の経歴、これにざっと書いてありますのでお読みいただければわかると思うんですけれども、五十四年当時は三井建設の土木営業部長をしておりまして、その営業の状況を上司に報告するというメモであります。
○高橋(繁)委員 当時、対策室長、座光寺課長補佐、それに県関係が視察をしておるので、現地で実際語っておるわけです。それは、現地はたいへんに期待もいたしておるし、あるいは熱海市としても、その後何ら具体的な対策が講じられていない。
なお上流の松尾、下久堅、水神橋、弁天橋付近は五メートルないし三メートル、その他上流、喬木、上郷、座光寺、豊丘、高森等におきましても順次上昇しておったのでございまして、影響は顕著であるのでございます。さらに、川路付近では、すでに今回のみでも二メートルくらいの上昇をいたしておったのでありまして、今回大災害を招来いたしたものと存ずるのでございます。
調査地区は、飯田市座光寺、下久堅、松尾、龍丘、川路と龍江村、喬木村、上郷村、豊丘村、高森町の一市五カ町村でありますが、詳細な数字は時間の関係上省略いたします。
なおさらにその上流十一、二キロのところに座光寺という地区がございますが、その北原正司氏のお宅は七十年前にそこに移転されたのだそうでありますが、かつて水害を受けたことがなかった。それがこの六月災害におきましては床上浸水になっている、こういうような状況であります。
続いてそこから五百メートル上流の姑射橋において十六メートル、堰堤より約九キロの地域であります天伯岩地籍において十二メートル、さらに十一キロ上流の場所であります天竜橋においては六メートル、次いで南原橋において四メートル、水神橋において三メートル、弁天橋において二メートル、座光寺・喬木村間の土曽川と小川の支流でございます合流点付近においては一・五メートル、豊丘村、市田村の間にかかっております明神橋付近において
○中島(巖)委員 ただいま地建の局長から、本年度の予算関係なんかの御説明もありましたが、これは河川局長によく聞いておいていただきたいと思いますが、私もその内容は大体知っておるのですが、お説のように竜江、川路、それから神郷、飯田市の座光寺、それから今の下平、これらの地籍はこのダムの影響によるところの地籍ばかりでありまして、この国費のほとんど八、九〇%が、ダムばかりではないとおっしゃるけれども、ダムの補修
この改修延長は約五十六キロにわたっておりますが、現在は掘さく、築堤、護岸、水制などの工事をやっておりまして、昭和二十二年の六月に着手しまして今日までに主として川路、竜江地区、それから上郷、座光寺村地区及び春近村地区、こういったつまり必然的にこの中にはダムによる河床上昇地区が入っておるわけであります。こういう地区の築堤、護岸、掘さくなどを施工してきたのであります。
その他、喬木、座光寺、上郷、市田、豊丘村等、河田隆昇により、前記川路村、松尾村と同様に、いつ堤防が欠壊して白河原と化するような危険が起るともわからぬ箇所ばかりで、とうてい護岸や堤防のかさ上げ程度では防げる限界ではないのであります。河川管理者の知事としては、堰堤の撤去命令のかわりに、人力で不可能のこの厳達命令を出したものと私は想像するのであります。
河床上昇が顕著になった昭和二十年ごろより、この河床上昇地域に当る川路、竜江、竜丘、下久堅、松尾、喬木、座光寺、豊丘、市田、上郷等関係十方村は、今までにかつて見られなかった堤防の決壊、耕地の流失等の災害が何回も起っています。災害のないところは、河床上昇のため、また地下水の浸透のため二毛作地帯が一毛作となり、その一毛作も冷害のため減収になっています。
(拍手) 君は、明治三十二年長野県下伊那郡座光寺村に生れ、同地の小学校を終えるや笈を負うて上京し、大正十五年立教大学商学部を、昭和三年には日本大学校文学部を御卒業になりましたが、学生時代からつとに日本の海外発展と国際親善とに眼を注がれ、この目的をもつてしばく海外旅行を試考れたのであります。
二五二 國営自動車拂下反対の請願(田中啓一君 紹介)(第一二三九号) 二五三 涌網線全通の請願(林好次君紹介)(第 一二四七号) 二五四 鹿児島臨港鉄道敷設に関する請願(岩川 與助君紹介)(第一二七二号) 二五五 二俣、佐久間間鉄道敷設促進の請願(中 村幸八君外二名紹介)(第一二七六号) 二五六 米良線拂下反対の請願(佐藤重遠君外六 名紹介)(第一三二〇号) 二五七 座光寺駅
三五二 國営自動車拂下反対の請願(田中啓一君 紹介)(第一二三九号) 二五三 涌網線全通の請願(林好次君紹介)(第 一二四七号) 二五四 鹿兒島臨港鉄道敷設に関する請願(岩川 與助君紹介)(第一二七二号) 二五五 二俣、佐久間間鉄道敷設促進の請願(中 村幸八君外二名紹介)(第一二七六号) 二五六 米良線拂下反対の請願(佐藤重遠君外六 名紹介)(第一三二〇号) 二五七 座光寺駅
次に日程第二五七号の座光寺駅を元善光寺駅に改称の請願でございますが、駅名は大体現在あるところの地名をとるのが一番妥当でもございまするし、利用のためにも最も間違いがなく適切だと思います。從つて今日座光寺村に所在いたしておりまする座光寺駅につきましては、特別の事情のない限り、現駅名を存置いたしたいと考える次第であります。 ―――――――――――――
村幸八君外二名紹介)(第一二七六号) 一五〇 草津、石山間に瀬田駅設置の請願(河原 伊三郎君紹介)(第一二七七号) 一五一 門司鉄道局小倉工磯部熊本分工場存置に 関する請願(坂本泰良君紹介)(第一二七 八号) 一五二 大高駅裏口に昇降口開設の請願(川本末 治君紹介)(第一三一九号) 一五三 米良線拂下反対の請願(佐藤重遠君外六 名紹介)(第一三二〇号) 一五四 座光寺駅
○岡村委員長代理 次は日程第一五四、座光寺駅を「元善光寺駅に」改称の請願、今村忠助君紹介、文書表第一三二一号を議題といたします。紹介議員今村忠助君の説明を聞きます。
○今村忠助君 座光寺駅を元善光寺駅に改称していただきたいというのでありまして、元來飯田線が伊那鉄道として民間にあつたころは、元善光寺駅と称しておつたのであります。
村幸八君外二名紹介)(第一二七六号) 一六四 草津、石山間に瀬田駅設置の請願(河原 伊三郎君紹介)(第一二七七号) 一六五 門司鉄道局小倉工磯部熊本分工場存置に 関する請願(坂本泰良君紹介)(第一二七 八号) 一六六 大高駅裏口に昇降口開設の請願(川本末 治君紹介)(第一三一九号) 一六七 米良線拂下反対の請願(佐藤重遠君外六 名紹介)(第一三二〇号) 一六八 座光寺駅
(第一二七五号) 二俣、佐久間間鉄道敷設促進の請願(中村幸八 君外二名紹介)(第一二七六号) 草津、石山間に瀬田駅設置の請願(河原伊三郎 君紹介)(第一二七七号) 開司鉄道局小倉工機部熊本分工場存置に関する 請願(坂本泰良君紹介)(第一二七八号) 大高駅裏口に昇降口開設の請願(川本末治君紹 介)(第一三一九号) 米良線拂下反対の請願(佐藤重遠君外六名紹 介)(第一三二〇号) 座光寺駅